今回はとてつもなく長くなること必至。故に準備としていくつかの言葉の定義を先にしたい。
まず絵について。絵は平面二次元。二次元は三次元の下位次元であって、もし三次元物体を面に写し取ろうとするならば、面は複数必要になる。たとえば人を描くなら、その人を正面から描いた絵だけではその人の背中はわからない。どんな単純な物体でも単面では表現できない。絵は常にその苦しみを背負う。
リアリズムとは。単純に言えば写真のように描くことだろう。が、本当はそういった表面的な物だけでなく心や時空間的な流れをも写したものと考える。
とはいえ技術的な観点などで、写真のように描くことの重要性もあり、リアリズムとかリアル画といった言葉を明確に区別する必要がある。そこで「デフォルメ率」というものを導入する。略して「デ率(略しすぎ)」。写真を分母にして、分子に写真と作品との誤差を持ってくる。デ率が0であるということは即ち写真と同じ、デ率が高くなるほど写真とはかけ離れていく、デフォルメされていくということを表す。
デ率0(写真)がリアルでないというのは理由がある。時間だ。現実とは止めどなく流れる時間と共に存在する。時間的な変化をも正確に写し取らなければ「現実」ではない。一度でもカメラをいじったことがあれば、写真というものはレンズが集めた光の情報をある短い時間(シャッタースピードで設定された時間)フィルムに焼き付けたものだということをご存じだろう。そう、写真とは時間的級数あるいは時間平均でしかない。正確な時間表現ではないのだ。正確な時間表現を持って初めてリアルであって、写真はリアルではない、そう定義する。
デ率をベクトル量と定義する。ベクトル量とは方向と大きさを持った量である。たとえば「100m進め」と言われてもどうも出来ないだろう。「西に100m」のところ東へ100m進んだ時には到着地点は全く違うところになる。絵でも、数値的に同じくらい写真と違う絵も、そのデフォルメの方向で全く違う物もあるでしょう。でもまぁこれは大して重要なことですな。
さて本題。
この世界にある人や物に感動し、その感動を誰かに伝えたくてキャンバスを持ち出し絵の具を置く。そのままの姿を伝えたいなら惜しみなく時間をかけて、そのままの姿になるまで描く。それが恐らくリアリズムの始まりではないかと思う。
リアルに描くということは、一般的には写真を撮ることと同じだろう。しかしもし「写真のように描く」のなら、それは技術力の誇示と取られてもしょうがないことだ。「写真のような絵」を描きたいのなら写真を撮った方が遙かに簡単だ。
写真は構造的欠陥において時間表現が不正確だ。しかしながらかなり良い近似を得られる。殆ど実物と違わない。近似とか不正確とか、絵描きの悪あがきとしか聞こえないだろう。しかし、時として写真を越える絵が生まれてくるのだ。リアルに描くということは、デ率0の向こうにある、写真の先にある本当の美を追うことにある。
ここで名前を挙げることはしないが、有名無名関係なく、そういった絵が時として生まれてくる。そんな絵を見る度に自分もそんな絵が描きたいと強く思う。
そんな絵の中にある種の絵が増え始めた。デ率が高いのだ。たとえリアルとは言えない絵だとしても、その表情や心情が強く伝わる絵は実在する。そこで気付いた。自分にとって一番大事なものが見えた。
先述の「本当の美」を追うことは間違いない。しかしそれがあたかもデ率0の向こうにあると勘違いしていた。この本当の美とはデ率と同一直線上にあるわけではないのだ。
気付いた途端今までの自分が一気に崩れ落ちる感覚に見舞われた。
前馬謖のイラストを描いたときどうしても似顔絵の感を拭えなかった。馬謖を演じさせるなら藤木直人と前から思っていたので、藤木に演じてもらって描いた。しかしながら終ぞ描きたかった馬謖の心情を察してもらうことは出来なかった。藤木が勝ってしまった。
藤木ではなく他の人の顔を描けば良かったかといえばそういう問題ではないだろう。もっと根本的なところに気付かなかったのだ。
絵柄だ。デ率の「方向」に当たる。馬謖には馬謖にあった絵柄が存在するはずだった。もちろんそれは先駆者が立てた慣例(記号)であり、後塵を拝する立場の人間には屈辱的なものとも取れる。1800年前の人々があんな劇画調の顔だったわけがない。本当は今の人と変わらない顔だったと思う。でもそれが重要なのではない。
何かを得るために何かを捨てるということはよくあることだ。わかっていたのは頭でだけだった。
「方向」に頼ることは怠慢といえばそうだろう。本来なら従う必要はない。また、放っていてもいずれはそれをうち破るムーヴメントが起こり、新たな「方向」が支配するだろう。繰り返すのが健全な形だ。しかし本質は「支配」ではなく「心情を伝えること」だ。支配は多くの人に伝わりやすい「方向」に過ぎない。「方向」を上手く「利用」するのだ。仮にも支配されることは屈辱にもなろう。しかし恥をかいてでも伝えることこそ絵描きの仕事だったのではないか。
ここに至り、自分が何を描けばいいかわからなくなった。
故に絵筆を置くことに決めた。
ただ絵を描くことはとても楽しいことだし、気分転換にもなるので軽いものはこれからも描いていこうと思う。しかしながらしばらくは、熱のこもった絵は描けないと思う。
ということでしばらく(といっても元々そうだったという話もあるが)おとなしくしております。申し訳ありません。